あゝ思い出ごはん

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help リーダーに追加 RSS かつお節のペンダント

<<   作成日時 : 2007/07/18 07:45   >>

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フリーライターの野口潤子さんが日本を飛び出し、カンボジアの首都プノンペンの生活情報誌『ニョニュム』(微笑み)の編集長になったのは昨年12月のことだった。
 
 雑誌をやっていた頃の私の同僚で、雑誌記者や編集者を長年務めた後、『食べるお茶の本』(大空出版)という単行本を執筆中の昨年夏、ひょんなことから、話が舞い込んだ。『ニョニュム』のオーナーは、プノンペン大学を首席で卒業し、現地で起業した若き日本人女性、山崎幸恵さん。クメール語、英語、日本語の入り乱れる喧噪の職場で、混沌の町で、戦争のような多忙な毎日を送っている。

 ニックネームは飲兵衛ならぬ「じゅんべ」。酔っぱらって「目白通り」が「メリロ・ローリ」になると足下が怪しくなる。日本脱出前の某日、行きつけの東京神楽坂の居酒屋で「思い出ごはん」の話をしたら、着任早々、以下の泣かせる名文をメールで送ってくれた。タイトルは、意表をつく「かつお節のペンダント」である。
   
          ☆      ☆      ☆

昭和20年、東京・小石川。東京大空襲の最中「敵機襲来!」の合図があると、庭の隅に掘った防空壕へ一目散に走る。わたしは3歳。防空壕の入り口の土壁には、穴を開けて紐を通したかつお節が家族の人数分だけ掛かっていて、それをひったくり首からぶら下げて梯子を降りる。
 
 わが家は人の出入りが多かったので到来物のかつお節はふんだんにあり、御所人形作家の父はかつお節にキリで穴を開け、仕事に使う本絹の丸紐を通して“食べるペンダント”を創った(イラスト)。

 紐は1人ずつ色分けされていて父は白、母は紫だったような気がする。わたしは代赦色(たいしゃいろ・黄土色がかった渋いレンガ色)だった。真っ暗な防空壕の中で家族全員が息を潜め、かつお節をしがみながらB29が爆撃をあきらめて遠ざかるのを待つ。それしかやることがなかったのだ。しゃぶっているうちに、じわじわと口いっぱいにうまさが広がっていく。

 父も母も江戸っ子の3代目で田舎を持たないわが家の食糧補給はままならず、ろくなものを食べていないうえにいつもすきっ腹を抱えていたわたしには、かつお節はこのうえなくおいしく、ご馳走でもあった。そして今思えば、良質の高たんぱく質とミネラルいっぱいのかつお節のおかげだろうか、だれも栄養失調に倒れることもなく全員が生き延びた。
 
 5月25日の最後の空襲でわが家は焼失。一面の焼け野原で仁王立ちになり、真っ青な空を睨んでいた父。わたしは古セーターを作り直した焦げ茶色のパンツ一つで「♪森の木陰でドンジャラホイ、こ〜びとさんが揃ってにぎやかに〜」と踊っていた。
 
 でも、どうしてこんなことをはっきりと覚えているのだろう。
 
 
          ☆       ☆       ☆

  ここに登場する潤子さんの父野口光彦さん(1896〜1977)は、戦前、人間国宝の鹿児島寿蔵さんや堀柳女さんらとともに人形を芸術の域に高めようとする人形芸術運動を起こした御所人形作家の巨匠。
 
 美智子皇后(当時皇太子妃殿下)が紀宮様ご誕生の折、所望された伝統工芸展出品の「月満る頃」という作品の作者でもある。職人気質の強い人で人間国宝を辞退。遺作は今も、東京千代田区の東京国立近代美術館工芸館に約10点が収蔵されている。




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内 容 ニックネーム/日時
あっという間のホームレス。
昭和20年5月25日の空襲で、家が焼け落ちる1ケ月前のこと。
8人目の末っ子として生まれ、茗荷谷の湧き水で産湯を浸かったひと月後でした。
さあこれからって時に、なんとまあ家無し児、いまでいうホームレス。
だっから、かつ節のペンダントなんて、お目にかかったことなどありゃしません。
でも親や家族は、ネッスルの粉ミルクで育ったんだから上等なんだとかほざいていたようです。
さて、萎びきった母親の出涸らしおっぱい、かつ節ペンダント、そしてネッスル粉ミルク。
いったいどれがいっちゃん栄養になったのか。
いまじゃあ、なんも言えねえ。

ボー
2008/12/16 17:19

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